昭和58年夏、北海道、乗り鉄の旅。

何にも記録が残っていないけど、当時の時刻表を元に思い出してみたい。

ちょこっとの写真と、わずかな記憶と保存していたキップをたよりに。


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貧乏学生、旅のお供は周遊券

当時は高校二年生。

ちょっとはバイトしてたけど。お金、無いよね〜

そんなときには、学割(2割引)の周遊券です。

周遊券があれば、エリア内なら特急・急行の自由席に乗り放題。行き帰りは急行自由席までなら、追加料金不要で乗車出来ました。

北海道ワイド周遊券は、有効期間は20日間もあり、北海道内の全ての国鉄線と国鉄バスに何度でも乗れるキップです(当時・学割で25,200円、東京都区内発の場合)

たくさんハンコが押されてますよね。これは『途中下車印』といって、駅で降りるたびに改札の駅員さんが押してくれるハンコです。当時はこれを集めて数を競い合うのが一部の乗り鉄の間で流行ってた?気がします。

貧乏な旅が基本だった当時は、いわゆる車中泊といって、夜行列車の中で(当然、座席)夜を明かし、ホテル代を節約するのが普通でした。

今回の北海道では、6泊だったっけかな〜

ホテルは網走で一泊しただけで、後は車中泊。夜汽車の中で寝ました。

車中泊の方法

  • 指定席や寝台車は別途に料金がかかるので、基本的には座席の自由席。
  • 空いていれば、4人がけの座席を占領、しかし、シーズンは席に座れない場合も!
  • 直接床に座る場合に備えて、新聞紙の携帯は必須。

あの頃は、本当に若かった(笑)

当然、熟睡なんて出来ません。わたしは最大5日間連続で車中泊をしたことがありますが、猛者は10連泊とか15連泊とかっての、ありえない体験談も聞きました。

そういえば、お風呂はどうしてたのかな?学生がサウナにいくはずもなく、銭湯使ったのかな〜、わたし自身は、あまり、お風呂に入った記憶がありません(笑)





旅立ちは急行まつしま1号

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(写真は東北本線・上野-青森運行時代の特急はつかり)

出発地点は東京の上野駅。

昭和58年は西暦1983年ですから、当時すでに東北新幹線は、大宮-盛岡間で開業していました。

もちろん、貧乏学生に新幹線という選択肢はありません。上野→仙台は急行まつしま。仙台→青森は、旧客鈍行列車に乗車しました。

  • 上野 6:54 → 仙台 12:03『急行まつしま1号』
  • 仙台 12:08 → 青森 20:52『鈍行列車・1535レ』

14時間もかかっとるw

しかも!急行まつしま、満員で座れず!

朝早い急行とはいえ、夏休みシーズン真っ盛りでしたから、席は取れませんでした。途中、途中で降りる人もいたんですけど、タイミングと場所が合わず、

結局、仙台まで4時間、立ちっぱなし orz

あっ、申し遅れましてたけど、同級生(男)の鉄ちゃん・平山くん(仮名)と二人旅です。

仙台からは座れました。こんどは9時間ちかく座りっぱなし、本当に体力あったんだなぁ〜

旧型客車鈍行列車・1535レ

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(写真は本文と無関係・正式運行前の試運転中、トワイライトエクスプレス瑞風)

1535レの時刻(仙台発青森行き)

  • 仙台 1208
  • 小牛田 1301
  • 一ノ関 1410
  • 北上 1504
  • 盛岡 1625(17分停車)
  • 好摩 1706
  • 八戸 1847(17分停車)
  • 野辺地 1958
  • 青森 2052

仙台と青森の距離は、およそ400kmあります。当時はその長距離を走破する旧型客車鈍行列車が4往復ぐらい運行されていました。

旧型客車ですから冷房なんて付いてません。8月の真夏の中、窓を全開にしてのんびりとレールの継ぎ目の音を響かせながら走ります。

仙台を出てしばらくすると車内もガラガラ状態に。最後尾の車両に乗ったので、車掌さんと運転士さんのやりとりが聞こえて来ます。

おんぼろ客車ですから、発車知らせ用のスイッチもなく、携帯電話もない時代なので、トランシーバーを使ってました。

列車発車合図

列車が駅を出発するたびに、トランシーバーでの会話が聞こえて来ます。

車掌 「1535列車車掌より、1535列車運転士へー」

運転士 「こちら1535列車運転士、1535列車車掌どうぞー」

車掌 「1535列車、発車!」(出発進行やったかな?うろ覚え)

発車の合図があると、汽笛一声、電気機関車が動き出してから、ワンテンポ遅れ、連結器をつたわって感じる「ガクン」とした衝撃のあと、列車はゆっくりと走り出します。

こんな鈍行列車を通して乗る人なんているの?って?

何組か見ましたよ。みんな若い子ばかり。中には、急行まつしまからずーと一緒の学生4人組も居ました。

汽車が好きなので、そんなに退屈もせず、ボーッとしているうちに時は過ぎ、約9時間かけて青森駅に着きました。





青森駅・青函連絡船待合室

船を待ってる人で待合室は満員!

一瞬、乗れるのかな!と思いましたが、ちょっと考えたところ、青函連絡船は一隻で約1,300人弱も乗れますからね〜。そこまで人は居ないから大丈夫でしょう。

これから乗るのは、青函連絡船・深夜便、1便です。「青森発 035→函館着 425」

函館に着いたら、接続良く、445発の札幌行き北斗1号に連絡します。その後のスケジュールは時刻表をいじくり回し、それはそれは素敵な乗り継ぎ計画を立ててました。

大判の時刻表は当時の鉄道ファンの必須書物です。旅の間は、なんども見直すのでボロボロになります。車中泊の際はマクラにもなる優れたアイテム。

ところが!

待合室で待つ事、およそ3時間、そろそろ乗船だな〜と思ってたら、

盛岡からの特急はつかり21号が到着して、大勢の乗客が青函連絡船へ!

そうなんです。青函連絡船って特急などの優等列車の乗客を優先して乗船させるんです。この時は、連絡船に乗るのが初めてなので知りませんでした。

これはヤバイと思っていたら・・・

今度は、大阪からの白鳥3号が到着、更に大勢の乗客が連絡船へと乗り継いでいきました。

むっちゃヤバイw

いくら1,300人弱乗れる船とはいえ、見た目には二千人近く乗船してしまったような気がしました。

その後、ようやく一般客の乗船が始まりましたが、

グリーン席客や指定席を持ってる人を優先して案内するものだから、なんの指定席も持ってない我々は、

結局、満員で乗れず!

こういう状況を専門用語で「積み残し」と言うそうです。まあ、どんな用語でも乗れないことには替わりありません。上野から一緒だった学生4人組も「積み残し」されてました。

次の便は翌朝まで無し!

朝起きてから約20時間、いまだ北海道に到着せず。津軽海峡を前にして、本土の青森駅待合室で途方にくれるのでした。

周遊券の旅・昭和58年夏の北海道【北斗3号〜胆振線〜まりも3号〜白糠線】その2に、つづく)

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